日本近代文学会東海支部 シンポジウム(第37回研究会)

【日 時】2010年3月14日(日)14:00〜
【会 場】名古屋大学 大学院文学研究科・文学部棟 237教室
http://www.nagoya-u.ac.jp/global-info/access-map/higashiyama/
【内 容】 シンポジウム 〈少女〉は語る/〈少女〉を語る
パネリスト 菅聡子お茶の水女子大学
 「「ジュニア小説」とは何だったのか―少女小説史のブラックホール
パネリスト 久米依子目白大学
 「パフォーマンスとしての〈少女〉――雑誌投稿欄からライトノベルまで」
パネリスト 坪井秀人(名古屋大学
 「少女文化と文化資本
ディスカッサント 小松史生子金城学院大学
司会 佐々木亜紀子(愛知淑徳大学ほか)


【シンポジウム趣旨】
〈少女〉は日本の近代化の歩みのなかで生まれた。国民国家形成に伴うジェンダー配置が確定してゆく過程で、男女両性を含む〈少年〉から、異なる範疇として〈少女〉は取り出されたのである。〈少女〉は〈少年〉に包含されつつ、その逸脱として位置づけられ、可視化されたのだ。
こうして生まれた少女たちは、表象された少女像や語られた少女小説を享受するに留まらず、自ら表現し創造する少女でもあり続けた。
本シンポジウムでは、「〈少女〉は語る/〈少女〉を語る」と題し、少女小説、ジュニア小説、ライトノヴェルケータイ小説などを俎上に、〈少女〉の連続性と断絶性など歴史的意味の検討や、生産・消費の観点からの〈少女文化〉を議論するものとしたい。


【発表要旨】

○菅 聡子(お茶の水女子大学
「ジュニア小説」とは何だったのか―少女小説史のブラックホール                           

 「ジュニア小説」と聞いて、はっきりとそのイメージを思い浮かべることのできる人は、現在、四十代以上の世代に限られるだろう。戦後、いわゆる「星菫派」と呼ばれた戦前以来の少女小説がその人気を失っていくなか、一九五〇年代の終わりから七〇年代にかけて、一世を風靡したのが「ジュニア小説」であったことは確かだ。しかし現在、少女小説史の言説においては、ほとんど言及されることのないジャンルと堕してしまっていることもまた事実である。
 実際、八〇年代以降の「コバルト小説」に代表される現代少女小説の原点と言えるのは、何と言っても氷室冴子の登場であり、その前時代にあたる「ジュニア小説」の全盛期である七〇年代、少女たちの内面を語り続ける役割を担っていたのは、むしろ少女マンガであったと言うべきかもしれない。
 しかし一方、これまた昨今の話題を独占した感のある「ケータイ小説」と「ジュニア小説」の親近性、というよりも類似性を指摘する評言もあるように、「ジュニア小説」が戦後日本社会の志向を色濃く反映したものであり、さらにその特色が現代日本社会においても再生産されるものであるならば、その歴史的な位置を再検討する必要があるだろう。以上のような問題意識に照らし、本発表では、「ジュニア小説」の置かれた状況を概観し、さらに、社会の攻撃の的となった性描写をめぐる議論の一例として富島健夫を、また「ジュニア小説」のめざしたものを代表する作品として佐伯千秋のそれをとりあげ、「ジュニア小説」研究の第一歩としたい。

久米依子
パフォーマンスとしての〈少女〉――雑誌投稿欄からライトノベルまで 

 明治30年代頃から、雑誌メディアで流通しはじめた〈少女〉という語とそれに伴う文化は、100年以上のあいだ日本社会で独特の位置を保ってきた。1世紀以上の歴史がある文化は当然ながら一様ではなく、時代ごとに多彩な問題が見出せる。しかし〈少女〉への関心はとぎれることなく続き、人びとを惹きつける表象が生み出されてきた。それは〈少女〉という記号に、一貫してパフォーマンスによって遂行される性質が備わっていたからではないかと考える。
今回の発表では、そのパフォーマンスが形を取りはじめた20世紀前半の少女雑誌の投稿欄にまず注目し、読者共同体が中心となって受け渡したパターンについて確認する。いっぽう、鑑賞する側がつくりあげたイメージの変遷も追い、最近のライトノベルに横溢する少女像の特色まで取り上げたい。あえて考察の対象を広げることによって、〈少女〉を演じる側と観る側との間で交錯する要素を検討し、わたしたちの文化が〈少女〉に負わせた近代的ジェンダーの差異のシステムを、多角的に検討できたらと考えている。

○坪井秀人(名古屋大学
少女文化と文化資本

 少女はときに労働の主体となり生産にも関わるだろう、もちろん再生産することだってできる。ところが〈少女文化〉というカテゴリーと、そこから生み出された〈少女〉の表象は、そうした生産主義的productivisticな性格を徹底的に排除してきた。〈少女〉とはすなわち、年齢やジェンダーだけでは同定することのできない、(行為や様態によってその主体が規定される)述語的存在からはかけ離れた空虚な主体、あるいは逆に(他者によって)過剰なる意味を投射された(そしてそれを自己表象として組み込む)透明なシニフィアンなのである。
例えば読書文化においても(少なくとも一昔前なら)けっして小さくない資本が介在し、階級差にもとづく貧困がその文化への参入を制限する事態は確実にあった。ところが近代文学史は、あるいは〈国語教育〉なる領域は、そうした現実をほぼ不可視化し、〈文学する少女〉の像をひたすら複製反復してきた。彼女たち、〈文学する少女〉たちは、文学消費者として小説や詩の本を手に読書文化に参入し、ひいては〈文壇〉という文学生産の場に関わる切符を手にする。この消費から生産への階梯じたいが表象化されることに、女性の書き手たちはどのように抵抗してきたのか、そのことが問われることになる。
一方、バブル経済を通過した1990年代以降の〈少女文化〉には、消費主義的cosumeristicな主体を〈少女〉たち自らが種々の表象によって再定義するという転回が見られるように思われる。消費し何も生み出さない、その不可能性としての幻想に投企entwerfenする彼女たちは、かつての〈文学する少女〉たちとは異なった次元に踏み込んでいるのかもしれない。本発表では、以上のような枠組みが有効であるかどうかを検証してみたい。