日本近代文学会東海支部 第38回研究会・総会御案内

日本近代文学会東海支部第38回研究会および総会を下記のとおり開催いたします。

【日 時】2010年6月12日(土)14:00〜17:30
【会 場】愛知淑徳大学星が丘キャンパス、5号館5階55B教室
http://www.aasa.ac.jp/guidance/hosigaoka.html
【内 容】 
  ・研究発表  14:00より

梶井基次郎檸檬」とモンタージュ
              森川雄介(愛知教育大学大学院修士課程)
○愛人という〈自由〉―吉屋信子「みおつくし」論―
              毛利優花(金城学院大学大学院博士後期課程)

   ・総会    16:00より

*研究発表は、会員以外の方でも来場自由です(予約不要)。ただし、総会は会員のみ参加となりますのでご了承お願いいたします。

《発表要旨》
梶井基次郎檸檬」とモンタージュ
              森川雄介(愛知教育大学大学院博士前期課程)

人は文章を読んでイメージすることがある。

西村清和『イメージの修辞学
言葉と形象の交叉』(三元社、2009)は、小説内の言葉がすべて 想像を促すものではないが、空間の配置や事物の特に視覚に訴える具体的で複雑な記述を読む場 合、イメージを頼りに全体を把握しようとすることがあると指摘する。イメージする可能性を高め るものとして「イメージ価」の高い言葉を使用することが挙げられるが、イメージ価は、「赤い」 「走る」などの比較的具象的なもののほうが「危険な」「推論する」などの抽象的なものよりも高 いという。

梶井基次郎は先行研究によれば、見ることに意識的であった作家である。良く言われる「凝視」 によって対象を見つめ、描く梶井のテクストは、「イメージ価」の高い言葉が並ぶ。とすれば、読 者が梶井テクストからイメージを浮かべることは想像に難くない。梶井テクストに於て読者はどの ようなことをイメージし視覚化、さらには映像化していくのだろうか。

それを考える上で、映像の研究理論、すなわち映画技法を応用することは有益だろう。梶井基次 郎の代表作でもある「檸檬」はさまざまな対象を視覚的に描く。しかし、このテクストに独特なの は、視覚で対象を描くとともに視覚以外でも同時に対象を知覚しようとする点にある。一つの対象 を複数の五感で描く際、読者はどのようなイメージを持つのか。

本発表では、先に記した通り映画技法を用いるが、ここでは特に複数の五感によって示される対 象の断片が接続されることによって生まれる効果について考えたい。そこで、特にモンタージュ理 論を利用し考察していき、複数の五感を接続していくことで発生するイメージと檸檬の持つ至上の 価値について考えていきたい。


○愛人という〈自由〉―吉屋信子「みおつくし」論―
            毛利優花(金城学院大学大学院博士後期課程)

吉屋信子といえば少女小説や大衆小説の印象が強いが、そのほかにも膨大な量の著作を残した多 作の作家である。「長編より外に書けないとながい間思いこんでしまつていたところ、戦後の自然 の風潮とでもいおうか、それに応じて自然短編ものを書かねばならぬ機会があつた」(「短篇12 枚の文学賞」『白いハンケチ』昭和三十二年五月、ダヴィッド社)と作家自身が回想するとおり、 長編を多く発表してきたが、彼女の戦後の執筆活動のはじまりは短編作品にある。この時期、「鬼 火」や「宴会」など怪談風味の作品や純文学的な作品など多くの短編が発表されたが、「みおつく し」(昭和二十三年四月「婦女界」)もこの頃発表された。

「みおつくし」は「一夫一婦の純潔」を守ったことで尊敬を集めた政治家が隠し続けた愛人―「私」 が、吉屋信子と思しき作家への手紙のなかで過去から現在までの出来事を告白する形式で書かれて いる。一般的な一夫一婦制の性規範からいけば、〈愛人〉はあってはならない存在であり、つねに 隠され、〈悪〉のレッテルを貼られる存在である。しかし、「みおつくし」においては〈愛人〉は 必ずしも絶対的な〈悪〉とは描かれない。

本発表では、「みおつくし」という作品を通して、〈愛人〉を女性が社会から求められるさま ざまな役割から解放された存在としてとらえ得るかどうか、発表当時の女性を取り巻く時代世相 および思想を鑑みつつ検証し、その存在の意味を、時間的・空間的・精神的な〈自由〉という論 点で考えてみたい。