日本近代文学会東海支部 シンポジウム(第39回研究会)のお知らせ

日本近代文学会東海支部シンポジウム(第39回研究会)を、今回は日本社会文学会東海ブロックとの合同開催といたしまして、下記のとおり開催いたします。

【日 時】2010年9月26日(日)14:00〜
【会 場】愛知淑徳大学 星が丘キャンパス 1号館3階 13B教室
http://www.aasa.ac.jp/guidance/map.html

【内 容】 シンポジウム 文学研究の臨界領域—YOU CAN (NOT) TOUCH WOMAN
パネリスト 生方智子立正大学
「エディプスからユング
  −川端康成『水晶幻想』『みずうみ』、および現代文化における鏡像的アイデンティティ
パネリスト 水川敬章(日本学術振興会特別研究員(名古屋大学))
 「『an・an』と『血と薔薇』」
パネリスト 広瀬正浩(東海高校
 「初音ミクとの接触−“電子の歌姫”の身体と声の現前」
ディスカッサント 森井マスミ(愛知淑徳大学
司会 竹内瑞穂(愛知淑徳大学


【シンポジウム趣旨】

 《女性表象とその力学》は、日本近現代文学研究のみならず、人文科学諸領域に共有されるテーマである。それはジェンダーセクシュアリティ理論に端を発する《主体をめぐる政治学》についての議論と重なり合いながら、新たな認識の地平を切り開いてきた。ではそれらの蓄積を引き受けた上で、さらに現在の我々が思考すべきことは何か。本シンポジウムは、この素朴な問いに基づき、「新世代」の研究者による研究の「新世代」を問う場――文学研究ではあまり扱われることのなかった対象や、新しい方法論の試みに関する討議の場として企図された。
 近現代文学・文化が女性を搾取の対象にしながら、女性を眼差し表象したことについて、抑圧/被抑圧という二項対立で腑分けし、その現状を歴史化しつつ糾弾することは大切なことである。だが一方で、そうした分析によって捨象されてきた様々な要素があるのもまた事実である。おそらく、新たな水準の批判を築いてゆくにあたって重要となるのは、文学・文化に根ざした欲望や情動の問題を分析すること、あるいは女性表象を可能にする感性/美学(エステティクス)の問題を分析すること、これを可能にする研究の方法論的な問題を継続して思考することにあるだろう。
 女性を客体化することを可能にする力は、次々に生み出され援用される分析装置や議論の枠組みをすりぬける。故に、これまでとは異なる思考の理路の獲得と理論的な布置を探る努力は欠かせまい。このシンポジウムは、そのためのささやかな一歩を会場全員の討議において踏み出すことをねらう。ここでは単純な方法論の新旧の対立や刷新ではない、オルタナティブな思考が会場に参集する人々によって紡ぎ出されれば幸いである。

【発表要旨】

生方智子立正大学
「エディプスからユング
川端康成『水晶幻想』『みずうみ』、および現代文化における鏡像的アイデンティティ
                     
精神分析の方法が文学に移入されると、テクストには意識によって捕捉できない無意識の運動が再現されていく。無意識の運動の表象とは無意味ではなく既存の意味の破壊であり、新たな意味と秩序の再編の試みとなる。そこでは確固とした自己同一性を備えた個人というアイデンティティの枠組みが新たなアイデンティティへと再編されるのである。
視覚的イメージを分析する理論として、しばしばJ・ラカン鏡像段階論が用いられるが、そこではイメージの世界は母子関係モデルを前提とした想像界として定位されるために、エディプスの枠組みが前提となってしまう。イメージの世界に耽溺する子どもは成長して象徴界に出ていかなればならず、エディプス的父の秩序に従ってマスキュランな主体を確立することが求められる。イメージの世界においてしばしば現れるトランスジェンダーと多様なセクシュアリティの様態を捕捉するために、今日、エディプスを乗り越えて鏡像的自己像を定位する理論的枠組みが求められている。
 今回は、〈意識の流れ〉の方法を用いた川端康成の小説、『水晶幻想』(1931年)『みずうみ』(1955年)において語られる鏡像的自己像を分析する。両テクストでは、いずれもエディプス的父、および母が不在であり、テクストで描き出されるトランスジェンダー的なアイデンティティの様態はフロイトを越えようとしたユング心理学と交差する。現代文学サブカルチャーの作品においてもユングアイデンティティが描かれており、モダニズム文学において主題化されたアイデンティティの問題が現代文化において継承されている事態について考察したい。

○水川敬章(日本学術振興会特別研究員(名古屋大学))
「『an・an』と『血と薔薇』」
 
 現在も様々な話題を振りまいている女性誌『an・an』の歴史は、『平凡パンチ女性版』(1966)にまで遡ることができる。この『平凡パンチ女性版』は、所謂パイロット版のような役割を果たし、4号(1970.2.20)まで世に送り出される。そして、1970年3月2日付けで、ついに『an・an ELLE JAPON』は創刊される。堀内誠一をアートディレクターにポップで洒落たデザインに仕上げられた『an・an』は、内容も目を見張る豪華さで、三島由紀夫長沢節五木寛之澁澤龍彦らの文化人、ギランゴー駐日フランス大使、佐藤寛子などの政界に関わる人びと、アラン・ドロンなどのスターが寄稿し、ヨーロッパのモードを伝える写真、鰐渕晴子をモデルにした篠山紀信の写真などが誌面を彩った。本発表では、この『an・an』について、とりわけ1970年を中心とするそれを対象に、本誌における女性表象やセクシュアリティのイメージについて議論してみたい。その際に引き合いに出したいのが、同じく堀内をアートディレクターに迎えて1968年に創刊された澁澤龍彦責任編集の雑誌『血と薔薇』である。三号雑誌として終刊した本誌は「エロティシズムと残酷の綜合研究誌」と銘打たれ、およそ『an・an』とは趣を異にするものであった。しかし、これらふたつの雑誌が保持するイメージは、幾つかの共通性によって架橋されるのではなかろうか。本発表が無謀にも試みるのは、表層的には対立するかのように見える二誌の間に通底するイメージについて議論することである。おそらく当時は意識されることのなかったイメージ―このことは、時にアナクロニズムと批判される―を本発表では議論することになるであろう。願わくは、『an・an』と『血と薔薇』との間に出来するイメージのダイアグラムを描ければと思う。

広瀬正
初音ミクとの接触−“電子の歌姫”の身体と声の現前」

 2010年3月9日に東京のライブハウスで、「初音ミク」のコンサートが開かれた。ステージの上に巨大なアクリル製のスクリーンが設置され、そこに映し出されたミクの姿とその彼女の歌声に、約2700人の観客が熱狂した(このライブはネットを通じても中継された)。初音ミクとは、YAMAHA音声合成技術「Vocaloid 2」によって発音される声の発信主体として構想された「女性」である。
 歌う初音ミクに魅了される多くの人々(私も含む)は、言うまでもなく、それがいわゆる「本当の人間」ではないことを十分に理解している。しかし、シミュレーションでしかないようなその自らの欲望の対象を、アイロニーとしてではなく、「リアル」に感じ取ろうとしているのだ。こうした人々の想像力を、どのように説明すればよいのだろうか。
 初音ミクに魅せられた人々の「リアル」を虚偽だと指摘し、ミクを通じて視覚的・聴覚的に展開された「女性表象」を「現実の女性から乖離した、男性の欲望の反映である」と批判してその表象の政治を問題にする(に留まる)ことに、果たしてどのような生産性があるのだろうか。
 かつて、文学研究の場において、〈文字〉よりも主体から絶対的に近いものとして〈声〉を想像し、主体の思考の直接的な顕現として〈声〉を捉える「音声中心主義」が問題にされたことがあった。初音ミクの歌声を通じてその彼女の歌う姿を想起する人々の想像力は、まさに音声中心主義的なものだと指摘して片付けられるかもしれない。しかし、初音ミクの声と主体の問題は、それほど単純なものとは言えないのではないか。私たちがミクの声を聴くことでその発信主体として想起してしまうのは、あくまで初音ミクであって、データベースの原基を提供した人物(この場合は声優の藤田咲)の存在ではない。しかも、初音ミクの声をデータベースから立ち上げる媒体は、他ならぬ文字であるのだ。
 初音ミクの声と身体をめぐる様々な問題を整理し、それらについての考察を試みることが、本発表の目論見である。私たちは“電子の歌姫”の歌声を聞いて、どのような身体性を獲得するのか。初音ミクの声に魅せられる者の一人として、文学研究の臨界を彷徨したい。

日本近代文学会東海支部 第38回研究会・総会御案内

日本近代文学会東海支部第38回研究会および総会を下記のとおり開催いたします。

【日 時】2010年6月12日(土)14:00〜17:30
【会 場】愛知淑徳大学星が丘キャンパス、5号館5階55B教室
http://www.aasa.ac.jp/guidance/hosigaoka.html
【内 容】 
  ・研究発表  14:00より

梶井基次郎檸檬」とモンタージュ
              森川雄介(愛知教育大学大学院修士課程)
○愛人という〈自由〉―吉屋信子「みおつくし」論―
              毛利優花(金城学院大学大学院博士後期課程)

   ・総会    16:00より

*研究発表は、会員以外の方でも来場自由です(予約不要)。ただし、総会は会員のみ参加となりますのでご了承お願いいたします。

《発表要旨》
梶井基次郎檸檬」とモンタージュ
              森川雄介(愛知教育大学大学院博士前期課程)

人は文章を読んでイメージすることがある。

西村清和『イメージの修辞学
言葉と形象の交叉』(三元社、2009)は、小説内の言葉がすべて 想像を促すものではないが、空間の配置や事物の特に視覚に訴える具体的で複雑な記述を読む場 合、イメージを頼りに全体を把握しようとすることがあると指摘する。イメージする可能性を高め るものとして「イメージ価」の高い言葉を使用することが挙げられるが、イメージ価は、「赤い」 「走る」などの比較的具象的なもののほうが「危険な」「推論する」などの抽象的なものよりも高 いという。

梶井基次郎は先行研究によれば、見ることに意識的であった作家である。良く言われる「凝視」 によって対象を見つめ、描く梶井のテクストは、「イメージ価」の高い言葉が並ぶ。とすれば、読 者が梶井テクストからイメージを浮かべることは想像に難くない。梶井テクストに於て読者はどの ようなことをイメージし視覚化、さらには映像化していくのだろうか。

それを考える上で、映像の研究理論、すなわち映画技法を応用することは有益だろう。梶井基次 郎の代表作でもある「檸檬」はさまざまな対象を視覚的に描く。しかし、このテクストに独特なの は、視覚で対象を描くとともに視覚以外でも同時に対象を知覚しようとする点にある。一つの対象 を複数の五感で描く際、読者はどのようなイメージを持つのか。

本発表では、先に記した通り映画技法を用いるが、ここでは特に複数の五感によって示される対 象の断片が接続されることによって生まれる効果について考えたい。そこで、特にモンタージュ理 論を利用し考察していき、複数の五感を接続していくことで発生するイメージと檸檬の持つ至上の 価値について考えていきたい。


○愛人という〈自由〉―吉屋信子「みおつくし」論―
            毛利優花(金城学院大学大学院博士後期課程)

吉屋信子といえば少女小説や大衆小説の印象が強いが、そのほかにも膨大な量の著作を残した多 作の作家である。「長編より外に書けないとながい間思いこんでしまつていたところ、戦後の自然 の風潮とでもいおうか、それに応じて自然短編ものを書かねばならぬ機会があつた」(「短篇12 枚の文学賞」『白いハンケチ』昭和三十二年五月、ダヴィッド社)と作家自身が回想するとおり、 長編を多く発表してきたが、彼女の戦後の執筆活動のはじまりは短編作品にある。この時期、「鬼 火」や「宴会」など怪談風味の作品や純文学的な作品など多くの短編が発表されたが、「みおつく し」(昭和二十三年四月「婦女界」)もこの頃発表された。

「みおつくし」は「一夫一婦の純潔」を守ったことで尊敬を集めた政治家が隠し続けた愛人―「私」 が、吉屋信子と思しき作家への手紙のなかで過去から現在までの出来事を告白する形式で書かれて いる。一般的な一夫一婦制の性規範からいけば、〈愛人〉はあってはならない存在であり、つねに 隠され、〈悪〉のレッテルを貼られる存在である。しかし、「みおつくし」においては〈愛人〉は 必ずしも絶対的な〈悪〉とは描かれない。

本発表では、「みおつくし」という作品を通して、〈愛人〉を女性が社会から求められるさま ざまな役割から解放された存在としてとらえ得るかどうか、発表当時の女性を取り巻く時代世相 および思想を鑑みつつ検証し、その存在の意味を、時間的・空間的・精神的な〈自由〉という論 点で考えてみたい。

シンポジウムが開催されました

さる3月14日、東海支部主催のシンポジウム「〈少女〉は語る/〈少女〉を語る」が開催されました。
当日はネット中継の実験などもありましたが、無事盛況のうちに終えることができました。

発表者、ご来場のみなさま、中継をご覧いただいた皆様ありがとうございました。



 「東海」を読む―近代空間(トポス)と文学

東海支部会員による論集です。東海地方という空間と文学の関わりについて、各執筆者それぞれが、多様なテーマおよび方法論を通じて分析しております。

書名:「東海」を読む―近代空間(トポス)と文学
著者: 日本近代文学会東海支部
出版社:風媒社
本体価格: \3,800(税別)
サイズ: A5判上製 352頁
ISBN: 4-8331-2070-8
発行年月: 2009年6月刊


目次

まえがき  二瓶浩明

・地域の文化資源としての文学者
  ――岐阜県美濃加茂市坪内逍遙大賞を起点に       
                     佐光美穂
・愛知の文学者たち――終戦以前                            
                     助川徳
・「芸術」と国家への理路
  ――佐佐木信綱とその和歌観の変遷               
                     松澤俊二

【column】探索・藍外堂主人奥村金次郎 
                     宮崎真素美

・『読売新聞』紙上の小栗風葉「青春」
  ――読者の投稿と紙上での位置           
                     牧 義之

新聞小説の境界――西遠地方/一九〇〇年代                      
                     諸岡知徳
・成るべく鉄道と筋かひにあるいて見よう
  ――田山花袋『日本一周』と柳田國男の「自由なる旅」               
                     永井聖剛

【column】泉鏡花「歌行燈」の時空間
  ―― 明治四〇年代の能楽界状況を踏まえて
                     山口比砂

蒲郡の物語――菊池寛「火華」と文芸講演会                      
                     瀬崎圭二

・兄の自殺と生家の崩壊――「人生劇場」の原点                     
                     都築久義

・「篝火」の中の川端康成
  ――「門がなかつた」の〈孤立〉                
                     細谷 博 

【column】佐々木味津三の文体
       
――初期小説を中心に                  
                     服部宏昭

【column】横光利一と伊賀、宇佐、鶴岡、
       そして伊勢神宮芭蕉             
                     二瓶浩明 

丸山薫の詩法と鉄道体験 
                     渡辺章夫

・青年都市の青年詩人たち
  ――春山行夫と名古屋のモダニズム詩誌をめぐって        
                     馬場伸彦

・〈未完〉のモダン都市・名古屋
  ――『新愛知』におけるプロレタリア文学評論とモダニズム             
                     竹内瑞穂

【column】柳生新陰流尾張名古屋 
                     加藤孝男  

太宰治の「老ハイデルベルヒ」の地、三島
  ――「三島の思想」についての一考察      
                     高塚 雅

愛の賞味期限は切れたか――河原晉也「悲しきカフェ」を読む              
                     山田健一

【column】小谷剛「確証」の世界
       ――第二十一回芥川賞選評を手がかりとして       
                     稲垣広和

・電話する小島信夫
  ――電子メディア論としての『別れる理由』              
                     広瀬正浩 

愛知万博と非‐合意の表象空間
  ――『サツキとメイの家』と押井守めざめの方舟」   
                      水川敬章

【column】堀田あけみ「1980アイコ十六歳」の周辺
                     鶴田武志

【column】その空の【白鯨】
       ――〈東海〉とライトノベルの想像力
                     酒井 敏

・〈地域学〉としての〈郷土文学〉論
  ――森田草平『煤煙』と江夏美好『下々の女』の〈故郷〉             
                      林 正子

あとがき  酒井 敏

シンポジウムのネット中継のお知らせ

今回のシンポジウムは、魅力的なパネリストの方々にご登壇いただけることもあり、ありがたいことですが、東海地域以外からも多くの反響が寄せられています。
しかし、実際に当日の会場に来て議論を聞くためには、移動の時間や費用といった様々な障害があります。
そこで、今回のシンポジウムの成果をより多くの人々に享受していただくためにも、USTREAMというネット中継サイトを利用したネット中継の実験を、支部会員の有志を中心に行わせていただきたいと考えております。
シンポジウムの開始時間にあわせて、

http://www.ustream.tv/doara758

にアクセスいただければ、そこからライブ中継のページに飛ぶことができます。

直接会場に足を運べないというみなさまは、ぜひご覧ください。

日本近代文学会東海支部 シンポジウム(第37回研究会)

【日 時】2010年3月14日(日)14:00〜
【会 場】名古屋大学 大学院文学研究科・文学部棟 237教室
http://www.nagoya-u.ac.jp/global-info/access-map/higashiyama/
【内 容】 シンポジウム 〈少女〉は語る/〈少女〉を語る
パネリスト 菅聡子お茶の水女子大学
 「「ジュニア小説」とは何だったのか―少女小説史のブラックホール
パネリスト 久米依子目白大学
 「パフォーマンスとしての〈少女〉――雑誌投稿欄からライトノベルまで」
パネリスト 坪井秀人(名古屋大学
 「少女文化と文化資本
ディスカッサント 小松史生子金城学院大学
司会 佐々木亜紀子(愛知淑徳大学ほか)


【シンポジウム趣旨】
〈少女〉は日本の近代化の歩みのなかで生まれた。国民国家形成に伴うジェンダー配置が確定してゆく過程で、男女両性を含む〈少年〉から、異なる範疇として〈少女〉は取り出されたのである。〈少女〉は〈少年〉に包含されつつ、その逸脱として位置づけられ、可視化されたのだ。
こうして生まれた少女たちは、表象された少女像や語られた少女小説を享受するに留まらず、自ら表現し創造する少女でもあり続けた。
本シンポジウムでは、「〈少女〉は語る/〈少女〉を語る」と題し、少女小説、ジュニア小説、ライトノヴェルケータイ小説などを俎上に、〈少女〉の連続性と断絶性など歴史的意味の検討や、生産・消費の観点からの〈少女文化〉を議論するものとしたい。


【発表要旨】

○菅 聡子(お茶の水女子大学
「ジュニア小説」とは何だったのか―少女小説史のブラックホール                           

 「ジュニア小説」と聞いて、はっきりとそのイメージを思い浮かべることのできる人は、現在、四十代以上の世代に限られるだろう。戦後、いわゆる「星菫派」と呼ばれた戦前以来の少女小説がその人気を失っていくなか、一九五〇年代の終わりから七〇年代にかけて、一世を風靡したのが「ジュニア小説」であったことは確かだ。しかし現在、少女小説史の言説においては、ほとんど言及されることのないジャンルと堕してしまっていることもまた事実である。
 実際、八〇年代以降の「コバルト小説」に代表される現代少女小説の原点と言えるのは、何と言っても氷室冴子の登場であり、その前時代にあたる「ジュニア小説」の全盛期である七〇年代、少女たちの内面を語り続ける役割を担っていたのは、むしろ少女マンガであったと言うべきかもしれない。
 しかし一方、これまた昨今の話題を独占した感のある「ケータイ小説」と「ジュニア小説」の親近性、というよりも類似性を指摘する評言もあるように、「ジュニア小説」が戦後日本社会の志向を色濃く反映したものであり、さらにその特色が現代日本社会においても再生産されるものであるならば、その歴史的な位置を再検討する必要があるだろう。以上のような問題意識に照らし、本発表では、「ジュニア小説」の置かれた状況を概観し、さらに、社会の攻撃の的となった性描写をめぐる議論の一例として富島健夫を、また「ジュニア小説」のめざしたものを代表する作品として佐伯千秋のそれをとりあげ、「ジュニア小説」研究の第一歩としたい。

久米依子
パフォーマンスとしての〈少女〉――雑誌投稿欄からライトノベルまで 

 明治30年代頃から、雑誌メディアで流通しはじめた〈少女〉という語とそれに伴う文化は、100年以上のあいだ日本社会で独特の位置を保ってきた。1世紀以上の歴史がある文化は当然ながら一様ではなく、時代ごとに多彩な問題が見出せる。しかし〈少女〉への関心はとぎれることなく続き、人びとを惹きつける表象が生み出されてきた。それは〈少女〉という記号に、一貫してパフォーマンスによって遂行される性質が備わっていたからではないかと考える。
今回の発表では、そのパフォーマンスが形を取りはじめた20世紀前半の少女雑誌の投稿欄にまず注目し、読者共同体が中心となって受け渡したパターンについて確認する。いっぽう、鑑賞する側がつくりあげたイメージの変遷も追い、最近のライトノベルに横溢する少女像の特色まで取り上げたい。あえて考察の対象を広げることによって、〈少女〉を演じる側と観る側との間で交錯する要素を検討し、わたしたちの文化が〈少女〉に負わせた近代的ジェンダーの差異のシステムを、多角的に検討できたらと考えている。

○坪井秀人(名古屋大学
少女文化と文化資本

 少女はときに労働の主体となり生産にも関わるだろう、もちろん再生産することだってできる。ところが〈少女文化〉というカテゴリーと、そこから生み出された〈少女〉の表象は、そうした生産主義的productivisticな性格を徹底的に排除してきた。〈少女〉とはすなわち、年齢やジェンダーだけでは同定することのできない、(行為や様態によってその主体が規定される)述語的存在からはかけ離れた空虚な主体、あるいは逆に(他者によって)過剰なる意味を投射された(そしてそれを自己表象として組み込む)透明なシニフィアンなのである。
例えば読書文化においても(少なくとも一昔前なら)けっして小さくない資本が介在し、階級差にもとづく貧困がその文化への参入を制限する事態は確実にあった。ところが近代文学史は、あるいは〈国語教育〉なる領域は、そうした現実をほぼ不可視化し、〈文学する少女〉の像をひたすら複製反復してきた。彼女たち、〈文学する少女〉たちは、文学消費者として小説や詩の本を手に読書文化に参入し、ひいては〈文壇〉という文学生産の場に関わる切符を手にする。この消費から生産への階梯じたいが表象化されることに、女性の書き手たちはどのように抵抗してきたのか、そのことが問われることになる。
一方、バブル経済を通過した1990年代以降の〈少女文化〉には、消費主義的cosumeristicな主体を〈少女〉たち自らが種々の表象によって再定義するという転回が見られるように思われる。消費し何も生み出さない、その不可能性としての幻想に投企entwerfenする彼女たちは、かつての〈文学する少女〉たちとは異なった次元に踏み込んでいるのかもしれない。本発表では、以上のような枠組みが有効であるかどうかを検証してみたい。